「こっちも試すから、ちょっと目を閉じて」
「断る」
「じゃあいいよ、私でやるから」
「っ……だから……!」
ちらりと棚を見ると、“アイシャドウ”の文字が見え、穂澄が持っているこれもそうだとわかった。
最近のというか、穂澄が使っているものもそうだが、ずいぶんと外装がきらきらしているものなんだな。
ぱっと見ただけでは、中に化粧品が入っているとは思えない。
そういうところが、女性らしさなんだろうか。
「ほら、ちょっとだけだから」
「く……っ」
早く自分に戻りたいと思ったのは、これで何度目のことか。
力で勝てるはずもなく、目元を覆うようにしていた腕がのけられ、ため息しか出なかった。
「お、いいね。これも欲しいなー」
「もうなんでもいいから、早くしてくれ」
この姿になってわかったが、自分と穂澄とは予想以上に力の差があることがわかった。
穂澄も加減がよくわからないらしく、割と強めに腕を掴まれたりするせいで、痛いと思ったことも多々ある。
いつも、穂澄がそこそこ腕を掴んできたりはするが、まったく気にならない程度だった。
それは男女差というのも、きっと加味されていたんだろう。
「うん。ちょっと開けて」
「…………」
「このメイクしてる私を里逸が見たら、そこそこ喜ぶんじゃない?」
すぐそこにある鏡に映った姿は、間違いなく普段の穂澄そのもの。
格好も髪型もすべて一緒だが、唯一の表情だけは機嫌の悪いときに見せる穂澄のままだ。
「……この姿で見てもな」
「まぁね」
「自分の目から見る穂澄のほうが、よほどきれいだ」
「…………」
「どうした」
「どうしたじゃない。なんでそういうこと、さらりと言うかな」
なぜ拗ねたような顔するんだお前は。
ため息交じりにつぶやいた途端、穂澄がおもしろくなさそうに視線を逸らした。
拗ねるといえば、ときどき穂澄に言われることがあるが……なるほど。おもしろくなさそうな顔というのは、すぐに相手にばれるものなんだな。
「里逸の声が聞きたい」
「? 聞いているだろう」
「そうじゃなくて。里逸がしゃべる声で褒められたいの」
ああなるほど、そういうことか。
穂澄は普段から、俺の声が好きだと言う。
自分ではどこがいいのかさっぱりわからないが、認めてもらえるのは素直に嬉しい。
そういうことなんだろうな。
穂澄も俺も、相手にまるごと受け入れてもらえるから、何もなくても心地よく感じるんだろう。
「……きれいだ」
「っ……」
「元に戻ったら、ちゃんと私に言ってよね」
「もちろんだ」
口を尖らせなかったのは、何より。
セリフがあまりにも穂澄めいていて、自然と笑みが漏れた。
その顔を見て満足でもしたのか、わずかに目を丸くしたあと、俺に手を伸ばす。
「うん。やっぱりかわいい」
指の背で頬を撫でた穂澄は、満足げに笑うと顔を寄せた。
「っ……ほ、ず……!」
「Just a peck(ちゅってしただけでしょ?)」
音を立てて顔が離れた瞬間、自分の唇に先ほどの口紅が移ったのが見え、反射的に手を伸ばす。
何をしてるんだお前は!
普段だったら間違いなく叱り飛ばすところだが、この姿であることを意識したせいか踏みとどまる。
ほんの一瞬目の前がかげったと思いきや、まさかこんな公衆の面前で口づけるなど理解しかねる行為でしかない。
一瞬のできごとで飛んでいた周囲の音が戻りはじめ、同時に顔が熱くなった。
「You kissed me lipstick off(ほら、キスしたから口紅取れちゃったじゃん」
「誰がそんなセリフをしゃべれと言った」
「里逸、顔が恐い」
「誰のせいだと思っている!」
すらすらときれいな発音は褒めてやりたいところだが、俺の声なのが納得できない。
俺はそんなこと言わないし、さらりと言うはずもないと認めたくない。
だが穂澄が、けらけらと笑うと悪戯っぽく……いや、意地の悪そうに笑った。
「Kiss me before say anything(なんか言う前に、ちゅーして)」
「ほ――!!」
お前は……!!
いつもの調子で名前を呼びかけ、踏みとどまったのは目の前の穂澄を見てではない。
ちょうど背中のほうから、間違いなく今『高鷲先生』という単語が聞こえたからだ。
「っ……」
大勢の買い物客が行きかう場所なのだから、ひとりやふたり生徒と出くわしてもなんら不思議ではない。
ましてや、この場所は若い子が多く行きかう場所。
高校生なぞいくらでも足を向けるだろう。
比喩ではなく鈍い音を立てて振り返ると、口元に手を当てて『やっぱりマジで』とささやきあう高校生カップルがいた。
女生徒のほうはそこまで見覚えがないが、男子生徒はあきらかに今受け持っているクラスにいる。
厄介な穂澄タイプではなく、単に投げやりな態度が目につく生徒。
できるのにやらないできてしまったのがわかるから、つい口うるさく対応してしまう相手だ。
「誰?」
「生徒だ」
「今関わってる?」
「ああ」
面倒なことになった。
とはいえ、穂澄が高校生だったときを考えればそこまででもないのが実際。
当時はまさに教師と生徒というタブーをおかしていたのだから冷や汗ものだが、とうに卒業し、就職した今となっては懐かしい思い出と言ってもいいか。
むしろ、普段俺をどうのこうのと好き勝手話している相手に対するならば、穂澄といるところを見られてもプラスでしかない。
俺にとって穂澄は、俺に欠けているすべてのものを持っている相手なんだ。
「なっ……!」
「おいで」
誰がそんなセリフを言えと……!
ぐい、と腰を引き寄せられたかと思いきや、目の前で穂澄が笑った。
それこそ、さっき口づけられたのと同等の距離に、慌てて身体を押す。
――前に。
「ん?」
「口紅が付いたままだ」
生徒らに背を向けたのはいいとしても、先ほどのキスで付いた口紅が取れておらず、慌てて唇を指先で拭う。
自分で自分の始末をするのは、子どもの世話をしているかのようでひどく心地が悪いな。
などとため息をつきそうになった途端、穂澄がぺろりと指先を舐めた。
「ばっ……!」
「里逸顔赤い」
「誰のせいだ!」
ひそひそとしたやり取りながらも、穂澄にはしっかりと伝わっており、けらけらと笑った。
だが、その様がいつもの穂澄らしくてか、呆れとは違う笑みが漏れる。
「ああ、そうだ」
そのまま店を出るのかと思いきや、ふいに穂澄が立ち止まった。
かと思いきや、生徒らを振り返る。
「黙っておけよ」
「……な……」
にやり、と笑った穂澄は彼らを指差した。
途端、大きな声が上がる。
「高鷲先生キャラちがくね!? なんでそんな俺様!?」
「え、てかギャップすご!! どゆこと!?」
ぎゃーぎゃー言い始めた生徒らを笑い飛ばしたあとで、穂澄はようやく店を出た。
お前は何がしたいんだ……。
そもそも、俺はあんな顔しないしあんなことを言ったりもしない。
ああ神様。
休み明け、面倒なことになっていませんように。
ただでさえ今の時代はスマートフォンで簡単に情報のやり取りができてしまう。
間違いなく、妙な背びれ尾ひれがついがものが泳ぎたてることだろう。
……まあいいが。
穂澄が生徒でなくなった今はもう、な。
と割り切れるようになったのは、ある意味俺も変わった証拠だろう。
「悪くないでしょ?」
「何がだ?」
「こーやって、すっぽり抱き寄せられるのも」
おそらく目的はないんだろう。
先ほどの店へ向かうときと違い、歩幅が狭くなったおかげでつかえることなく歩けている今。
相変わらず穂澄は俺を引き寄せたまま、小さく笑う。
「まあ……そうだな」
「ね。安心するっていうか、すごい好き。こうやって自分抱き寄せるのもいいけど、やっぱり私はされたいな」
腰から肩へ手を滑らせると、指先で器用に髪をいじる。
自分がまずされることのない動作だけに、くすぐったさのほうが勝つものだな。
そういえば、俺も無意識のうちに穂澄の髪を梳いているときがあるらしいが、こんな感覚なのか。
もっとも、穂澄の場合はくすぐったげではなく、どちらかというとまどろんでいるほうが多いが。