朝から、いい匂いがした。
ん、これはシャケの焼ける匂い。
あれ、今日って旅館に泊まってたっけ……ってそんなはずないでしょ。どんな願望よ。
朝ごはんでシャケが出てくるなんてことは、まずない。
あれ、あったっけ。
でもま、稀な組み合わせよね。
ひょっとしたら、葉月ちゃんは甲斐甲斐しくたっきゅんに出してあげてたりするかもしれない。
うわ、いいわね。ずるいわ。朝から栄養満点の和食朝食とか!
うちの場合はだいたい順也が作ることが多いわけで、ヨーグルトとトーストとコーヒーか牛乳ってところね。
ああ、あとはコーンフレークとかも食べる。
牛乳飲みすぎ? 大丈夫。そーゆーのは、気にしたら負けだからしない。
だっておいしいじゃない! 牛乳!
ホットでもよし、アイスでもよし、なんて万能なのかしら。
寒い時期にはホットココアなんて、この世で最強の飲み物だと思う。
って、話がだいぶそれた。
んーと、おいしそうなシャケの匂いがします。
てことは、今日は何よ朝ごはんからうちも和食っちゃう感じ?
へええ珍しい。まあいいんだけど。私はなんでも。
用意してくれて、おいしくいただければ文句なんてなんにもないんだから。
「……ん」
いつもより低い声が出て、ベッドから抜けると同時に身体がふらつく。
あー、重たい。なんかいつもよりだるい……のとはちょっと違うんだけど、違和感。
寝室のドアを開けると、シャケの匂いが強くなった。
よし、焦げてないいいお味の予感。
「おは――よ?」
私らしからぬ声と、見まごうことなき“私”がキッチンに立ってるのを見るのとは、完全に時が一致した。
「おーっほっほっほ!」
「……やめてくれ頼むから」
「だって、何よこのフラグ! ていうか万能感!? まずいわね、これじゃ私間違いなく純也に成り代わって冬瀬を支配しちゃうかも」
「そんな時代じゃないからやめろ!」
おーおー必死に首降っちゃって。
そんな顔、私絶対しないからやめてほしいわ。
まるで懇願めいた眼差しかつ唇噛むなんて、どんな少女漫画の主人公よ。
そーゆーのは羽織や葉月ちゃんで間に合ってるから、私はしなくてオッケー。
それにしても、まさかこんなにおもしろおかしくて楽しい薬だなんて思わなかったわ。
菊池先生、ありがとう。
稀に見るよきかなイベントで、朝からテンション上がりっぱなしよ。
ことの発端はいつものごとく、学生や教員でごった返す七ヶ瀬大学の学食atランチタイムだった。
「駄菓子って形状じゃねーだろ」
「なんだよ孝之、ずいぶん疑ぐるねぇ」
「当然だ。何回このシチュで似たようなブツ見たよ。誰だって疑うっつの」
遠目でもよくわかる、定番の位置に座る定番の3人組に、今日は菊池先生がぴったんこしていた。
あの3人ってだけでもまあいつものこととはいえそこそこ目立つのに、立ったままの菊池先生がまあ目立つのよね。
あの人、顔がいいのに中身暗黒っていうか何考えてるかわからない人ナンバーワンっていうかで、うさんくさい笑顔がとても目立つ。
いや、どっちかっていうと擬態がうまいとでも言ったほうがいいのかしら。
うんまあ、基本的に褒めてるんだけどね。私は。
菊池先生がそばにいると、だいたいおもしろいことが起こる。
そんな方程式ができあがっているわけで、不思議そうな羽織をよそに、私は音を立てぬようそっちへと近づいていた。
「いやー、うちのかわいい妹からおもしろいモンもらったんだわ」
「おもしろいって言っちゃってる時点でもう、ダメなやつじゃねーか」
「大丈夫だって。なんでも、明晰夢ってやつが見れるんだとさ。自分の好きなように観れる夢ってやつ?」
「あんまっつーか、ちっとも惹かれねーけど」
「そーゆーなよ! アイツも試したらしいけど、だいぶ楽しかったらしいぜ? なんでも、彼氏と精神だけ入れ替わってみたって鉄板ネタだったらしいけど、おもしろかったーってさ」
「おい、お前アイツで実験すんなよ。さすがに倫理的どうこうって方面でアウトだろ」
「まさか! 俺じゃないって。なんか、彼氏がもらってきて飲ませてみたらおもしろかったからつってたぜ?」
「……待て。それは完全アウトでブラックな犯罪だ」
なにそれなにそれ、ちょっとーすごく楽しそうなんですけど!
自分の好きなように夢が見れるとか、最高じゃない!
てことはあれでしょ? 空も飛べるはずってやつでしょ!?
やだ、すっごい! すっごい楽しそうそれ!!
私も見たい! てか、これってきっとみんな一度はやってみたいと思うはずよ!?
んふふー。
羽織はどんな夢見るのかしらね。
菊池先生の妹さんみたいに、彼氏と精神だけ入れ替わってみちゃう?
やだ、そしたらたっきゅんと葉月ちゃんが入れ替わるってこと!?
やばいそれやばいから! 私が個人的に見たいわ!
いい。それってすごくいい!
よし決定。
葉月ちゃんには、入れ替われるとしたらどんなことしたい? ってあえて質問してみてから、飲んでもらうことにしましょ。
そんでもって羽織は――うふ。
入れ替わらせてみたら、あの祐恭先生のことだもの、いかがわしいことに……いや、今の祐恭先生じゃそこまでいかがわしいこと考えないかもしれないわね。
じゃあどんなことになるのかしら?
まあいいわ。どっちにしても、私の夢は決まった。
葉月ちゃんと羽織が、どんな入れ替わりを経験するか、こっそり木陰から覗き見ること。
これでいこう。よし決まり。
あとは実行あるのみよ!
「だからそんなモ――」
「菊池先生、ちょっとお話が」
「お、久しぶりじゃん。元気だった?」
「ちょお元気ですよ。ささ、こちらへ」
「っ……おいバカ、絵里!」
「失礼ね。いつから私の名字がバカになったのよ。訴えるわよ」
「そーゆー屁理屈を言ってる場合か! って、優人君も間に受けない!」
「まあまあ」 「まあまあじゃないから!!」
つつっと菊池先生の袖を引き、学食の端へ移動を目論む。
大丈夫。純也はなんか手間取ってるから、今なら余裕よ!
「楽しいレポート提出しますから、それ譲ってください」
「おっけー。んじゃ、全部やるよ」
私が両手を彼へ差し出すのと、遠くから純也の大きな声が響くのとはほぼ同時だった。